Home＞Ｂ級＞古文への招待＞歌人の逸話を読もう＞延喜天暦のころ
延喜〔えんぎ〕は醍醐天皇の代の年号で、九〇一年から九二三年までです。『古今和歌集』が編纂されました。天暦〔てんりゃく〕は村上天皇の代の年号で、九四七年から九五七年までです。『後撰和歌集』が編纂されました。醍醐天皇と村上天皇の治世が、後世、「延喜天暦の治」と呼ばれて、天皇親政の理想的な時代とされていますが、一方では、承平天慶の乱が起こるなど、律令制の破綻が進んでいた時代でもあります。
ここでは醍醐天皇の父の宇多天皇〔：亭子の帝〕の話から、ゆるゆると読み進めましょう。
その１ 『大和物語』鳥飼の大江玉淵の娘
その１ 『大和物語』河尻の白
その１ 『大和物語』橘良利、旅寝の夢
その２ 『撰集抄』伊勢、この人誰？
その２ 『伊勢集』伊勢、藤原仲平
その２ 『伊勢集』伊勢、男宮
その３ 『撰集抄』藤原義孝、荻の上風萩の下露
その４ 『宇治拾遺物語』一条摂政、母などを語らひて
その４ 『一条摂政御集』一条摂政、大蔵史生倉橋豊蔭
その４ 『大和物語』檜垣の御、純友が騒ぎ
その５ 『大鏡』後少将義孝、法華経読誦
その６ 『栄花物語』広幡御息所、合わせ薫物少し
その６ 『枕草子』宣耀殿女御、古今和歌集
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その１ 次へ
亭子の帝が大江玉淵の娘を召し寄せます。（２００７年度立命館大学、２００３年度近畿大学から）
〔本文〕
亭子〔ていじ〕の帝〔みかど〕、鳥飼院〔とりかひのゐん〕におはしましにけり。例〔れい〕のごと御遊びあり。「このわたりのうかれめども、あまた参りて候〔さぶら〕ふ中に、声おもしろく、よしあるものは侍〔はべ〕りや」と問はせ給〔たま〕ふに、うかれめばらの申すやう、「大江〔おほえ〕の玉淵〔たまぶち〕がむすめと申す者、めづらしう参りて侍り」と申しければ、見させ給ふに、さまかたちも清げなりければ、あはれがり給うて、上〔うへ〕に召し上げ給ふ。「そもそもまことか」など問はせ給ふに、鳥飼といふ題を皆々人々に詠ませ給ひにけり。仰〔おほ〕せ給ふやう、「玉淵はいとらうありて、歌などよく詠みき。この鳥飼といふ題をよくつかうまつりたらむに従ひて、まことの子とは思ほさむ」と仰せ給ひけり。承りて、すなはち、
浅緑かひある春にあひぬれば
霞ならねど立ちのぼりけり
と詠む時に、帝、ののしりあはれがり給ひて、御しほたれ給ふ。人々もよく酔〔ゑ〕ひたるほどにて、酔ひ泣きいとになくす。帝、御袿〔うちき〕一襲〔ひとかさね〕、袴〔はかま〕賜〔たま〕ふ。「ありとある上達部〔かんだちめ〕、親王〔みこ〕たち、四位〔しゐ〕五位〔ごゐ〕、これに物脱ぎて取らせざらむ者は、座〔ざ〕より立ちね」とのたまひければ、片端より、上下〔かみしも〕皆被〔かづ〕けたれば、被きあまりて、二間〔ふたま〕ばかり積みてぞ置きたりける。
かくて帰り給ふとて、南院〔なんゐん〕の七郎君〔しちらうぎみ〕といふ人ありけり。それなむ、このうかれめの住むあたりに家造りて住むと聞こし召して、それになむ、のたまひ預けたる。「かれが申さむこと、院に奏〔そう〕せよ。院より賜はせむ物も、かの七郎君につかはさむ。すべてかれにわびしき目な見せそ」と仰せ給うければ、常になむとぶらひかへりみける。
『大和物語』一四六
〔訳例〕
亭子の帝が、鳥飼の院にいらっしゃった。いつものように管絃の遊びがある。「この辺りの遊女どもが、大勢参上して伺候する中に、声が美しく、由緒のある者は控えているか」とお尋ねになると、遊女どもが申し上げることは、「大江の玉淵の娘と申します者が、めずらしく参上しております」と申し上げたので、御覧になると、姿かたちも美しかったので、感心なさって、御殿の上にお呼び上げになる。「そもそも本当か」などお尋ねになる時に、鳥飼という題をすべての人々に詠ませなさった。おっしゃることは、「玉淵はとても才知に長けていて、歌などをうまく詠んだ。この鳥飼という題をうまくお詠み申し上げているようなことに従って、本当の子とはお思いになるだろう」とおっしゃった。お聞き申し上げて、すぐに、
浅緑色に霞む生きていたかいがある春に巡り会ったので
霞でないけれども御殿に上がることができたなあ。
と詠む時に、帝は口を極めて感心なさって、涙をお流しになる。人々も十分に酔っている時で、酔い泣きをこの上なくする。帝は、御袿一襲と袴をお与えになる。「ここにいるすべての上達部、親王たち、四位五位の者、この者に衣服を脱いで与えないような者は、この場から立ち去ってしまえ」とおっしゃったので、片端から、身分の高い者も低い者も皆与えたので、たくさんいただきすぎて、二間ほど積んで置いてあった。
こうしてお帰りになるということで、南院の七郎君という人がいた。その者が、この遊女の住むあたりに家を造って住んでいるとお聞きになって、その者に世話を任せなさった。「あの者〔：大江玉淵の娘〕が申し上げるようなことは、院に奏上せよ。院からお与えになるような物も、あの七郎君におやりになるだろう。すべてあの者につらい思いをさせてはいけません」とおっしゃったので、南院の七郎君は常に訪れ世話をした。
〔解説〕
亭子〔ていじ〕の帝〔みかど〕とは、醍醐天皇の父の宇多天皇〔うだ：八六七〜九三一〕です。菅原道真を登用し、藤原氏を押えて政治の刷新を図りました。亭子院とは、もともと宇多天皇女御の藤原温子の邸でしたが、譲位後に御所としたので「亭子の帝」「亭子の院」と呼ばれています
鳥飼の院は淀川右岸にあった離宮です。
『更級日記』では、和泉国へ下〔くだ〕った時に高浜〔たかはま：水無瀬のすぐ南の淀川右岸〕に立ち寄ったところに、遊女の描写があります。また、中世の日記の『弁内侍日記』でも遊女の描写があります。「中世の日記を読もう」の「弁内侍日記」を参照してください。『更級日記』の文章も引用してあります。
大江玉淵は、大江音人〔おとんど：八一一〜八七七〕の子、大江朝綱〔あさつな：八八六〜九五七〕の父です。大江氏は、平安時代に文章道〔もんじょうどう〕を家学とした氏族です。音人を始祖として、朝綱・千里・匡衡〔まさひら〕・匡房〔まさふさ〕など優秀な学者を輩出しました。こういう漢学者の系統の家でありながら、こんな娘さんもいたんですね。
「鳥飼という題」云々とは、「鳥飼（とりかひ）」という言葉を和歌の内容に関係なく歌に詠み込むことを求めています。この和歌は「あさみとりかひあるはるに」の部分に「とりかひ」が詠み込まれています。こういう詠み方は「隠題〔かくしだい〕」や「物名〔もののな〕」と呼ばれ、平安時代に盛んに行われました。大江玉淵の娘は即座に「鳥飼」を隠題にした歌を詠んで、認定試験は合格です。
「被く」とは、下二段動詞が、褒美や引き出物を与えること、四段動詞が、褒美として物をいただくことです。受け取った者は、左肩にかけたままお礼の舞を舞うのが仕来りでした。「二間」の「間」は、寝殿造りの建物の柱と柱の間を言います。ざっと３ｍほどだそうです。
「南院の七郎君」については、よく分からないようです。光孝天皇第一皇子是忠親王を南院親王というと、注釈があります。ということは、「七郎君」は亭子の帝からは甥っ子ということになるのでしょうか。「かれ」は、男にも女にも、動物、物事にも用いる言葉です。
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淀川流域の遊女は有名でした。『大和物語』では、この鳥飼の大江玉淵の娘の話のすぐ前の段に、亭子の帝が河尻〔かわじり：神崎川の河口〕の「白〔しろ〕」という遊女を召した話があります。読んでみましょう。
〔本文〕
亭子〔ていじ〕の帝、河尻〔かはじり〕におはしましにけり。うかれめに白〔しろ〕といふ者ありけり。召しにつかはしたりければ、参りて候〔さぶら〕ふ。上達部〔かんだちめ〕、殿上人〔てんじゃうびと〕、親王〔みこ〕たち、あまた候ひ給ひければ、下〔しも〕に遠く候ふ。「かくはるかに候ふよし、歌仕かまつれ」とおほせられければ、すなはち詠み奉りける。
浜千鳥飛び行く限りありければ
雲立つ山をあはとこそ見れ
と詠みたりければ、いとかしこくめで給ひて、被〔かづ〕け物、賜〔たま〕ふ。
『大和物語』一四五
〔訳例〕
亭子の帝が河尻にいらっしゃった。遊女に白という者がいた。お呼びになるために人を派遣なさっていたので、白は参上して控える。上達部や殿上人、親王たちが、大勢伺候なさったので、白は下座の遠くに控える。「このように遠くに控える旨、歌を詠んで差し上げよ」とおっしゃったので、すぐにお詠み申し上げた。
浜千鳥は飛んで行く限度があったので
雲が立ち昇る山を「あれは」と思って見る。
と詠んでいたので、亭子の帝はたいそうひどく感心なさって、褒美の品をお与えになる。
〔解説〕
「河尻」とは淀川の河口一帯を指します。三角州地帯であるので、河川の作用によって地形が絶えず変わる場所でした。淀川の流れの変遷については、淀川河川事務所の「古代から現代までの淀川の歴史」が参考になります。また、淀川流域の遊女については、「Web版 図説 尼ヶ崎の歴史」（第１節「中世社会の形成」神崎川流域の発達と港津）の「神崎の遊女とその伝説」、「なにわ大坂をつくった100人」の「江口の君（きみ）遊女妙（たえ）」が参考になります。
遊女の白が「下〔しも〕に遠く候ふ」というのは、身分がものを言う社会だからです。亭子の帝はもちろん、上達部、殿上人、親王たちは建物の上にいますが、遊女の白は遠くの地べたに控えています。
遊女の白の詠んだ歌の「浜千鳥」は白のことです。浜千鳥は淀川の河口にいる鳥です。その場にちなんだ素材をさっと取り上げて詠んでいるのはさすがです。「雲立つ山」は亭子の院の御座所を指します。内裏や宮中を「雲の上」とか「雲居」とも言うことが下敷きになっています。「あは」は「あれは」と、「淡路〔あはぢ〕」「阿波〔あは〕」の「あは」の掛詞です。淡路は淡路国、阿波は阿波国です。河尻から淡路島が遠くに見えたのでしょう。歌の大意は、「賤しい身分の私は帝のお側には参上できませんから、あれが帝の御座所だと遠くから拝見しております」ということです。歌を求められて即座に詠むのですから、相当の実力であることが分かります。
この話の遊女の白や、前の話の大江玉淵の娘のような、和歌に堪能な者を呼び寄せて歌を詠ませて、こういう「御遊び」の場に花を添えるということをしていたことが分かります。亭子の帝からの被物だけがあったように語られていますが、大江玉淵の娘の話のように、その場にいた上達部・殿上人・親王たちもどっさり被物を与えたことでしょう。
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退位した後の亭子の院にこんな話があります。（２００４年度近畿大学から）
〔本文〕
帝〔みかど〕、おりゐ給〔たま〕ひて、またの年の秋、御髪〔みぐし〕おろし給〔たま〕ひて、ところどころ山踏〔やまぶ〕みし給ひて行ひ給ひけり。備前〔びぜん〕の掾〔じょう〕にて、橘〔たちばな〕の良利〔よしとし〕と言ひける人、内裏〔うち〕におはしましける時、殿上〔てんじゃう〕に候〔さぶら〕ひける、御髪おろし給ひければ、やがて御供に頭〔かしら〕おろしてけり。人にも知られ給はでありき給うける御供に、これなむおくれ奉〔たてまつ〕らで候ひける。「かかる御ありきし給ふ、いとあしきことなる」とて、内裏〔うち〕より、「少将、中将、これかれ、候へ」とて奉れ給ひけれど、違〔たが〕ひつつありき給ふ。
和泉〔いづみ〕の国に至り給うて、日根〔ひね〕といふ所におはします夜〔よ〕あり。いと心細うかすかにておはしますことを思ひつつ、いと悲しかりけり。さて、「日根といふことを歌に詠め」とおほせごとありければ、この良利大徳、
ふるさとの旅寝の夢に見えつるは
恨みやすらむまたと問はねば
とありけるに、皆人〔みなひと〕泣きて、え詠まずなりにけり。その名をなむ寛蓮〔くゎんれん〕大徳〔だいとく〕と言ひて、後〔のち〕まで候ひける。
『大和物語』二
〔訳例〕
亭子の帝が退位なさって、翌年の秋、出家剃髪なさって、所々山歩きをなさって、仏道修行をなさった。備前の掾〔じょう〕で、橘良利と言った人が、帝が内裏にいらっしゃった時に、清涼殿の殿上の間でお仕え申し上げたのが、帝が出家剃髪なさったので、そのまますぐにお供として出家剃髪してしまった。誰にも知られなさらずにあちこち歩きまわりなさったお供に、この者が離れ申し上げずにお仕え申し上げた。「このようなお出掛けをなさるのは、とても困ったことであるぞ」ということで、内裏から、「少将、中将、誰それ、お仕え申し上げよ」ということで差し向け申し上げなさったけれども、亭子の帝はその者たちに出会わないようにしてはあちこち山踏みをなさった。
和泉の国にお越しになって、日根という所にいらっしゃる夜である。亭子の帝が大勢のお供の者もなく、とても心細くもの寂しくしていらっしゃることを思いながら、橘良利はとても悲しかった。さて、「日根という言葉を歌に詠め」とお言葉があったので、この良利大徳が、
ふるさとが旅先の夢に現われたのは
不満に思っているのだろうか。旅のお供に出たきり便りをしていないので。
と詠んだので、皆は泣いて、詠むことができなくなってしまった。その名を寛蓮〔：良利の法名〕大徳と言って、後々まで亭子の帝にお仕え申し上げた。
〔解説〕
亭子の院〔：宇多天皇〕は、八九七（寛平九）年七月三日に三十一歳で子の敦仁親王〔あつひと：醍醐天皇〕に譲位しました。出家は、『大和物語』では「またの年の秋」となっていますが、実際は二年後の八九九（昌泰二）年十月二十四日だということです。
「山踏み」とは、仏道修行のための山歩きを言います。亭子の院は、九〇〇（昌泰三）年には金峰山・高野山・竹生島などに出掛けたということです。「日根」は、大阪府泉佐野市日根野、関西国際空港の対岸辺りです。
「少将、中将、これかれ、候へとて奉れ給ひけれ」とは、亭子の院の子の醍醐天皇が、「おとうさん、それは困ります」ということで、お供の人たちを派遣したということです。「少将、中将」とは、近衛府の次官ですが、良家の子弟が就任することが多い役職で、少将、中将を経て公卿に進むのが出世コースでした。注釈によれば、「在原友于〔ともゆき〕・藤原仲平などがつかわされた（醍醐天皇御記、延喜七年十月）」ということです。藤原仲平〔なかひら：八七五〜九四五〕は藤原基経の次男で、宇多天皇女御藤原温子〔：八七二〜九〇七〕の弟です。
「日根といふことを歌に詠め」とは、地名の「日根」を詠み込んだ歌を詠めということです。鳥飼の院の大江玉淵の娘の話で、「この鳥飼といふ題をよくつかうまつりたらむに従ひて、まことの子とは思ほさむ」と言ったのと同じです。「あさみどりかひあるはるに」に「とりかひ」が詠み込まれていました。「ふるさとの…」の歌にも「日根」が詠み込まれているなずなのですが、探してみると、「ふるさとのたびねのゆめに」に「ひね」が詠み込まれています。掛詞と同様に、清音濁音には関わらずに詠み込むことが分かります。
夢に人が現れるのは、現れた人が夢を見ている人を強く思っているからだという俗信がありました。また、夢は一つの現実としてとらえられていたので、「恨みやすらむ」という発想が生まれるのです。夢に現われたのは京に残してきた家族や知人でしょう。「恨む」は、現代語のような深く重い意味はなかったようです。
亭子の院のお供はかなりの長期間の「出張」だったのでしょう。橘良利の歌は、京の家が恋しい、どうしているのか気になるという思いをも詠み込まれているので、橘良利の次にお供の人たちが順番に歌を詠もうとしていたのですが、感極まって泣いて、歌が詠めなくなってしまいました。この時代の旅情は、ふるさとが恋しい、旅はつらいということです。現在の楽しい旅というとらえ方とはずいぶん違います。「え詠まずなりにけり」の「なり」は動詞「なり」です。
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平安時代の初め、嵯峨天皇の『凌雲集〔りょううんしゅう〕』『文華秀麗集〔ぶんかしゅうれいしゅう〕』、淳和〔じゅんな〕天皇の『経国集〔けいこくしゅう〕』の勅撰三漢詩文集が編纂され、その後、漢詩漢文の水準はますます高くなっていきましたが、八九四（寛平六）年に菅原道真〔すがわらのみちざね：八四五〜九〇三〕の建議で遣唐使が廃止される少し前、八八四（元慶八）年から八八七（仁和三）年の頃に、記録の残る最古の歌合〔うたあわせ〕である『在民部卿家歌合〔ざいみんぶきょうけうたあわせ〕』が開かれています。主催者は在原業平〔ありわらのなりひら：八二五〜八八〇〕の兄の在原行平〔ありわらのゆきひら：八一八〜八九三〕です。漢詩漢文の陰に隠れていた和歌が、この頃になってやっと陽の目を見るようになってきました。寛平年間〔：八八九〜八九七〕には『寛平御時后宮歌合〔かんぴょうのおおんとききさいのみやうたあわせ〕』が開かれ、この歌合には亭子の院〔：宇多天皇〕が深く関わっていたとされています。亭子の院は、女郎花合〔おみなえしあわせ〕に歌合を付随させた『亭子院女郎花合』を行なうなど、和歌絡みの行事を盛んに行ない、平安遷都以来下火であった和歌を宮廷に再登場させ、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』編纂の下地を作りました。亭子の院は、私家集が『亭子院御集〔ていじいんぎょしゅう〕』、『後撰集』以下の勅撰集に十七首入集している勅撰集歌人です。
『寛平御時后宮歌合』には『古今和歌集』の撰者であった、紀友則〔きのとものり〕・紀貫之・凡河内躬恒〔おうしこうちのみつね〕・壬生忠岑〔みぶのただみね〕の四人が全員参加していて、『寛平御時后宮歌合』から『古今和歌集』にたくさんの歌が採られています。
おまけその１、源融〔みなもとのとおる〕が作った河原院〔かわらのいん〕に、源融が亡くなった後に亭子の院が住んでいた頃、源融の霊が現われ出て、亭子が院が源融の霊とあれこれやり取りをしたという怪談めいた話が残っています。「おまけ」の「５常界と異界」を参照してください。
おまけその２、亭子の院が九〇七（延喜七）年九月十日に、洛西〔らくさい〕の嵐山近くの大堰川〔おおいがわ〕へ御幸〔みゆき）した時に、紀貫之、凡河内躬恒〔おうしこうちのみつね〕ら六人の歌人が詠んで奉った六十三首の歌に付けられた「大井川行幸和歌序」〔：当時は御幸も行幸と言ったようです〕が伝わっています。歌は残念ながら伝わっていません。「近世の文章あれこれ」の「和文の伝統」の「その５２」を参照してください。
おまけその３、亭子の院の皇子たちは、源姓を賜って臣籍降下し、宇多源氏と呼ばれています。その中で敦実親王の子の源雅信〔みなもとのまさのぶ〕は左大臣を務め、その娘の倫子は藤原道長の正妻となって、藤原頼通や彰子の母となりました。また、雅信の次男の扶義〔すけのり〕の系統は、近江国佐々木荘に土着し、佐々木氏を名乗る武家となりました。南北朝時代の佐々木高氏（導誉）が有名です。佐々木道誉については、「中世の日記を読もう」の「竹むきが記」の「おまけ４」を参照してください。
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伊勢という歌人の話です。（２００５年度甲南大学、１９８８年度後期京都大学から）
〔本文〕
昔、伊勢と聞こえし歌詠みの女、世の中過ぎわびて、都にも住みうかれなんどして、世に経〔ふ〕べきたづきもなく侍〔はべ〕りけるが、太秦〔うづまさ〕に参りて、心を澄ましつつ勤めなどして、
南無〔なむ〕薬師〔やくし〕あはれみ給〔たま〕へ世の中に
ありわづらふもおなじ病ぞ
と詠みて侍りければ、仏殿〔ぶつでん〕動き侍りけり。その夜〔よ〕の暁〔あかつき〕、夢に、貴〔たふと〕き僧のおはしまして、「汝〔なんぢ〕が歌の、身に染みて思〔おぼ〕し召さるれば、世にありつくべきほどのこと侍るべし。この暁、急ぎてまかり出〔い〕でね。もし、道にて思はざること侍るとも、いなぶ心あるべからず」と見つ。あはれかたじけなきことにおぼえて、まかり出でぬ。
何となく苦しきままに、ある古る堂に人もなくて侍りけるに立ち入り、仏拝みなんどするほどに、輿〔こし〕、馬に乗りつれて、ゆゆしげなる人の通り侍りけるが、何とか思ひ侍りけん、この堂に入り侍れば、伊勢すべき方〔かた〕なくて、後ろの方へ行き侍るに、この中の主〔あるじ〕とおぼしき僧の追ひ来て、「かやうのこと、申すにつけて憚り侍れど、仏の御告げ侍りて申すになん。我が住む方ざまをも御覧ぜられ侍れかし」と、ねんごろに聞こえ侍り。これを違〔たが〕へんこと、仏の思し召さむも恐ろしくおぼえ侍るままに、なびきにけり。ことに悦びて、輿に乗せて男山〔をとこやま〕にともに至り侍りぬ。
八幡宮〔はちまんぐう〕の検校〔けんげう〕にてぞ侍りける。いつきかしづくことかぎりなく、子どもあまたまうけにければ、分〔わ〕く方なくわりなきものに思ひてぞ侍りける。この検校も、年ごろあひ馴れ侍りける妻に別れ、みめかたちのあてやかに、心ざまのわりなからん人がなと思ひけるに、この伊勢を得てければ、心のままにぞ侍りける。
『撰集抄』八・二二
〔訳例〕
昔、伊勢と申し上げた歌詠みの女が、世の中で暮らしあぐねて、都でも住む所もなくさまよいなどして、世の中で暮らすことができる手立てもございませんでしたのが、太秦に参詣して、心を澄ましながら勤行などして、
南無薬師如来。かわいそうに思ってください。世の中で
暮らしあぐねるのも同じ病気だよ。
と詠んでおりましたところ、仏殿が動きました。その夜の明け方、夢に、貴い僧がいらっしゃって、「おまえの歌が思わず身に染みてお思いになるので、この世で生活してゆくことができる程度のことがありますに違いない。この明け方、急いで退出してしまえ。万一、途中で予想外なことがありましても、断わる気持ちを持ってはいけない」と見た。心打たれありがたいことに感じられて、退出した。
何となく苦しいままに、ある古い堂に人もいなくてありましたのに入り込み、仏を拝みなどするうちに、輿や馬に乗り伴って、いかにも立派な人が通りましたのが、どのように思いましたのだろうか、この堂に入りますので、伊勢はどうしようもなくて、後ろの方へ行きますと、この中の主人と思われる僧が追ってきて、「このようなことを申し上げるについては遠慮されますけれども、仏のお告げがございまして申し上げるので。私の住む所をも御覧になってくださいよ」と、心をこめて申し上げます。これに従わないようなことは、仏のお思いになるようなのも恐れ多く思われましたままに、従ってしまった。格別に喜んで輿に乗せて男山にいっしょに行き着きました。
石清水八幡宮の検校でございました。大切に扱い世話をすることは限りがない。子どもを大勢もうけてしまったので、一途にとても愛しいものと思っておりました。この検校も、長年馴れ親しみました妻に先立たれ、顔立ちが優美で、気立てのとてもすばらしい人がいたらいいなあと思ったところ、この伊勢を手に入れてしまったので、思うとおりでございました。
〔解説〕
「南無薬師…」の歌を詠んだ伊勢を、宇多天皇〔：亭子の帝〕の寵愛を受けた平安時代中ごろの歌人だとする注釈があります。『撰集抄』（桜楓社1985）の「平安中期の女流歌人。藤原継蔭の女。中務の母。宇多天皇皇后温子に仕えるが、藤原仲平、宇多天皇、敦慶親王らと交渉を持つ。八七七？〜九三八？」という注釈、また、『撰集抄』（現代思潮社1987）の「藤原継蔭の子。女流歌人。八七二頃〜九三九頃。宇多天皇の中宮、温子に仕える。後に宇多天皇の寵を受ける」という注釈がそれです。
確かに、宇多天皇〔：亭子の帝〕の寵愛を受けた平安時代中ごろの歌人の伊勢についての説明は注釈のとおりなのですが、岩波『日本古典文学大辞典』の「伊勢」の項目の「閲歴」で、もうすこし詳しい説明を見ると、「『伊勢集』や『古今集』『後撰集』などの作品によってその生涯をたどると」して、十五歳前後で宇多天皇女御藤原温子のもとに出仕し、藤原仲平、宇多天皇、敦慶親王と恋愛関係にあり、敦慶親王の子の中務を生むが、「その親王が、延長八年（九三〇）二月に、四十四歳でこの世を去る。伊勢はおそらくその時、五十六、七歳であっただろう」と説明されているので、『撰集抄』の「世の中過ぎわびて、都にも住みうかれなんどして、世に経べきたつきもなく」、また、八幡宮の検校と結婚して「子どもあまたまうけてけれ」とある『撰集抄』の「伊勢」は、宇多天皇の寵愛を受けた歌人の伊勢とはどうやら別人であるようです。
同じ歌が『今物語』二七にあって、小大進〔こだいしん〕が詠んでいます。小大進は生没年未詳ですが、歴史物語の『今鏡』に名前が出てくる人物で、花園左大臣源有仁（ありひと：一一〇三〜一一四七）に仕えた女房とされています。
小大進と聞こえし歌詠み、いと貧しくて、太秦へ参りて、御前の柱に書き付けける歌、
南無薬師憐れみ給へ世の中にありわづらふも同じ病を
と詠みたりければ、ほどなく、八幡の別当光清にあひ具して、楽しくなりにけり。子など出できて後、もろともに居たりける所近き所に、芋のつるのはひかかて、ぬかごなどのなりたりけるを見て、光清
はふほどにいもがぬかごはなりにけり
と言ひたりければ、ほどなく小大進、
いまはもりもやとるべかるらん
と付けたりける、おもしろかりけり。
『今物語』二七
話の展開が同じです。専門家の研究を待ちましょう。
「太秦〔うづまさ〕に籠もりて」とある「太秦」は、弥勒菩薩で有名な広隆寺のことです。広隆寺には弥勒菩薩の他に薬師如来も安置されていて、薬師如来は、病気平癒、現世利益の仏として多くの人に信仰されていました。『枕草子』には、清少納言が陰暦八月晦に広隆寺に参詣する途中に稲刈りを見たことが、『更級日記』には、陰暦八月ごろに広隆寺に参籠しに行く途中、短連歌をしたことが、『うたたね』には、阿仏尼が若い頃、神無月に広隆寺に参詣したことが記されています。
仏殿が動くのは、伊勢の詠んだ歌に薬師如来が心を動かされ、伊勢の願いを薬師如来が聞き入れたことを示します。登場人物の詠んだ歌に神や仏の反応して、建物が振動したり、声が聞こえたりするのは、歌徳説話〔：主要な登場人物が和歌を詠むことで、神仏や人々の心を動かし、幸福を得たり、危機から救われたり、利益を得るという説話〕に多くある話の展開です。
寺院に参籠して夢でお告げを受けるというのも、説話に多くある展開です。「仏教説話の世界」の「仏の霊験」の「こんな話１」「こんな話２」「こんな話４」を参照してください。
たまたま出会った女性を連れて行ってしまって妻にするのは、現代から見るととんでもない話ですが、仏の霊験がらみの類話が多くあるようです。「仏教説話の世界」の「仏の霊験」の「こんな話２」の話を参照してください。
「八幡宮」は石清水八幡宮です。京都府八幡市の男山にあります。伊勢神宮とともに朝廷や武家の信仰を集めました。陰暦八月十五日に行われる放生会（ほうじょうえ）は賀茂祭（葵祭）・春日祭と並ぶ三大勅祭の一つです。「検校〔けんぎょう〕」とは、寺社の事務を監督する、主立った立場の人です。東大寺・高野山・石清水・春日など重要な寺社に置かれていました。
とりあえず、めでたしめでたしでこの話が終わります。
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さて本物？の伊勢は、「十五歳前後で宇多天皇女御藤原温子のもとに出仕し、藤原仲平、宇多天皇、敦慶親王と恋愛関係にあり、敦慶親王の子の中務を生む」と、岩波『日本古典文学大辞典』の「伊勢」の項目で説明されています。
次は、伊勢と藤原仲平の話です。（２００８年度近畿大学、２００４早稲田大学から）
〔本文〕
寛平〔くゎんぴゃう〕の帝〔みかど〕の御時〔おほんとき〕、大御息所〔おほみやすどころ〕と聞こえける御局〔つぼね〕に、大和に親ある人、候〔さぶら〕ひけり。親いとかなしくして、「なべての男は逢はせじ」と思ひて候はせけるに、御息所の御兄〔せうと〕、いとねむごろに言ひわたり給〔たま〕ふを、いかがありけむ、「親、いかが言はむ」と思へど、「さるべき宿世〔すくせ〕にこそあらめ。若き人、頼みがたくぞあるや」とぞ言ひける。
年経〔ふ〕るほどに、その時の大将の婿〔むこ〕になりにけり。親聞きて、「さればよ」と思ひけり。女かぎりなく恥づかしと思ふほどに、この男のもとより、女の親の家は五条わたりなるに来て、垣の紅葉にかく書き付けたり。
人住まず荒れたる宿を来て見れば
今ぞ木の葉は錦織りける
女いと心憂〔う〕きものから、あはれにおぼえければ、
涙さへ時雨〔しぐれ〕にそひてふるさとは
紅葉の色も濃さぞまされる
と書きて、ねずみもちに付けてやりける。九月〔ながつき〕ばかりのことなるべし。男も見て、かぎりなくめでけり。
『伊勢集』
〔訳例〕
寛平の帝の御治世に、大御息所と申し上げた方の御局に、大和に親のいる女が伺候していた。親がとてもかわいがって、「並の男とは結婚させないようにしよう」と思って伺候させたところ、御息所の御兄弟が、とても熱心に言い寄り続けなさるのを、どのようであったのだろう、深い仲になってしまった。「親はどう言うだろう」と女は思うけれども、「そうなるはずの前世からの約束であったのだろう。しかし、若い人は、あてにできないよ」と親は言った。
年月が経つうちに、男はその時の大将の婿になってしまった。親は聞いて「やはり心配したとおりだ」と思った。女は限りなく恥ずかしいと思ううちに、この男のもとから、女の親の家は五条辺りにある所に来て、垣の紅葉にこのように書き付けた。
人が通〔かよ〕って来なくなり荒れている邸を訪れて見ると、
今、木の葉は錦を織るように美しく紅葉しているなあ。
女はとても情けないけれども、歌に心動かされたので、
涙までも時雨といっしょに降りそそぐこの邸は
よその邸よりも紅葉の色も濃さが際立っている。
と書いて、ねずみもちに付けて贈った。長月ぐらいのことであるに違いない。男も見て、限りなく感心した。
〔解説〕
『伊勢集』は伊勢の私家集で、この文章は『伊勢集』の冒頭です。読んでみてまるで歌物語ですが、『伊勢集』のいわゆる第一部は、伊勢自身を「大和に親ある人」「女」のように記しているので、歌物語的部分と呼ばれています。伊勢の前半生を下敷きにしながらも、亭子の院の寵愛を受け、后の宮にも親しくお仕えしたという物語として、虚構化された部分がかなりあるということです。
本文は、虚構化という事情で、遠回しな表現をしていますが、寛平の帝が亭子の帝〔：宇多天皇〕、大御息所が宇多天皇皇后藤原温子〔：八七二〜九〇七〕、「大和に親のいる女」の「女」が歌人の伊勢のことで、親は大和守藤原継蔭〔つぐかげ〕です。「御息所の御兄」は藤原仲平〔なかひら：八七五〜九四五〕で藤原基経の次男、温子の弟です。「大将」とは近衛府の長官ですが、誰なのかよく分からないようです。「この男のもとより」の所は本文に乱れがあるようです。
「人住まず…」は藤原仲平の歌です。「住む」は、男が夫として女のもとへ通うということです。伊勢の親の邸に誰も住んでいないということではありません。「人」は、ここでは藤原仲平を指します。「宿」は、家や住居のことで、庭先も含む家全体を言うことが多い言葉です。和歌では貴族の邸宅も「宿」と詠まれます。「木の葉は錦織りける」は、紅葉を錦に見立てた表現です。大意は、「ひさしぶりに訪れて来たけれど、あなたの邸の紅葉はきれいですねえ」ということです。藤原仲平は政略結婚だったのでしょうが、伊勢のことが忘れられなかったのでしょう。
「涙さへ…」は伊勢の歌です。当時、時雨が降ったり霜が降りたりすると紅葉すると考えられていました。また、涙を時雨になぞらえることは多くあります。「君恋ふる涙時雨と降りぬればしのぶの山も色付きにけり（あなたを恋しく思う涙が時雨のように降ったので信夫の山も色付いてしまったなあ）」（千載集）という歌もありますが、『伊勢集』では「いと心憂き」とあって、「心憂し」は、自分をめぐる物事や状況に対して感じる憂鬱なさま、他人の行動や言動に接して不愉快に思うさまを言うので、悲しみの涙だったのでしょう。大意は、「この邸では、時雨が降るだけではなく、私の流す悲しみの涙までもいっしょになって降っているから、紅葉の色はよその邸よりは際立っているのです」ということです。伊勢の気持ちは藤原仲平から離れていたようです。
「ねずみもち」はもくせい科の常緑樹です。なぜ「ねずみもち」の木なのかは、よく分からないようです。「長月」は陰暦九月、陰暦では七月八月九月が秋です。時雨は秋の終わりから冬の初めにかけて降る雨のことです。長月と神無月〔：陰暦十月〕が時雨の季節です。
＊＊ ＊＊ ＊＊＊ ＊＊ ＊＊
伊勢が亭子の帝の寵愛を受けた時のことです。（２０２０年度早稲田大学、１９９９年度奈良女子大学から）
〔本文〕
これかれ、とかく言へど、聞かで、宮仕へをのみしけるほどに、時の帝〔みかど〕、召し使ひ給〔たま〕ひけり。よくぞまめやかなりけると思ふに、男宮〔をとこみや〕生まれ給ひぬ。親などもいみじう喜びけり。仕うまつる御息所〔みやすどころ〕も、后〔きさき〕に居〔ゐ〕給ひぬ。男宮を桂といふ所に置き奉〔たてまつ〕りて、自らは后〔きさい〕の宮に候〔さぶら〕ふ。雨の降る日、うちながめて、思ひやりたるを、后の宮、御覧じておほせらる。
月のうちに桂の人を思ふとや
雨に涙の添ひて降るらん
御返し、
ひさかたの中に生〔お〕ひたる里なれば
光をのみぞ頼むべらなる
この、帝に仕うまつりて生みたりし御子〔みこ〕は、五つと言ひし年、失〔う〕せ給ひにければ、悲しいみじとは世の常なり。嘆くものから、かひなければ、世にあらじと思ふも、心にかなはず。夜昼恋ふるほどに、人のもとより、
思ふより言ふはおろかになりぬれば
たとへて言はむ言〔こと〕の葉ぞなき
さらにものもおぼえねば、返事〔かへりごと〕もせず。
またの年の五月五日、ほととぎすの鳴くを聞きて、
死出〔しで〕の山越えて来〔き〕つらんほととぎす
恋しき人のうへを語らなん
今は身を心憂〔こころう〕がりて、ただ宮仕へをのみなむしける。
『伊勢集』
〔訳例〕
この人あの人が、あれこれ言い寄るけれども、耳を貸さずに、宮仕えばかりをした時に、時の帝〔：亭子の帝〕がお呼び寄せになってお使いになった。よくもまあ心をこめてお仕えしたと思ううちに、男宮がお生まれになった。親などもたいそう喜んだ。お仕え申し上げる御息所も、后におなりになった。男宮を桂という所に住まわせ申し上げて、自身は后の宮に伺候する。雨の降る日、もの思いにふけって、男宮のことを思いやっているのを、后の宮が御覧になっておっしゃる。
月の中に生えているという桂の木、その桂の里にいる人のことを思うということで
空から降る雨にあなたの涙の雨が加わって降っているのだろうか。
お返事、
月の中に生えている桂の里であるので
后の宮のお気持ちだけを頼りにしなければならないようだ。
この、帝にお仕え申し上げて生んでいた御子は、五歳という年、お亡くなりになってしまったので、悲しいつらいとは世間並みの言葉である。悲しむけれども、かいがないので、生きていたくないと思うのも、思いどおりにならない。寝ても覚めても恋しく思う時に、ある人のもとから、
思うことよりも言葉では不十分なものになってしまうので
思いをたとえて言うような言葉がない。
まったく茫然としているので、返事もしない。
翌年の五月五日、ほととぎすの鳴くのを聞いて、
死出の山を越えて来ただろうほととぎすよ。
恋しい人のことを語ってほしいなあ。
今となっては自分の身の上を情けなく思って、ただただ宮仕えをばかりした。
〔解説〕
后の宮と伊勢との贈答歌の次に、男宮以外の話題の二首の歌があるのですが、それを省いて問題文にした奈良女子大学セレクションをもとにして読んでいます。
「月のうちに…」の歌の「月のうちに桂」とは、月には桂が生えているという中国の故事によっています。「久方の月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ（月に生えている桂の木も秋はやはり紅葉するからいっそう光り輝いているのだろうか）」（古今集）という歌もあります。「桂の人」が男宮のことで、「男宮を桂といふ所に置き奉りて」ということだったので、「月のうちに桂の人」と詠んでいます。
「涙」は、露・雨・時雨になぞらえられます。「五月雨の空だに澄める月影に涙の雨は晴るる間もなし（五月雨の空さえ澄んでいる月の光であるのに涙の雨は晴れる間もない）」（新古今集）という歌があります。
「ひさかたの…」の歌の「ひさかた」は枕詞「ひさかたの」の転用で月のこと、「ひさかたの中に生ひたる里」は「桂の里」のことです。
天子は日に、后は月にたとえられます。『礼記〔らいき〕』昏義の「天子之与后。猶日之与月。陰之与陽」に基づいた発想です。「光」は月の光ですが、「光をのみぞ頼むべらなる」と言っているので、后の宮のお気持ち、御配慮、御愛情ということになります。
「べらなり」は、「べし」から派生した助動詞で、接続や意味などで「べし」と類似性があるということです。
「人のもとより」の部分には省略があります。『伊勢集』には平貞文〔たいらのさだふみ：？〜九二三 『平中物語』の主人公〕とのやり取りがあって、平貞文が何年も手紙をよこすのに伊勢が返事をしなかったので、「見つ（見た）」さえも言わないのかと手紙で問い詰めたところ、伊勢は「見つ」とだけ返事をしたので、平貞文は伊勢に「みつ」というあだなを付けたという話があります。「この見つと付けたりし人のもとより」がもとの本文です。入試問題として余計な要素を入れないようにしようという配慮から省略したのでしょう。
陰暦では卯月（四月）・皐月（五月）・水無月（六月）が夏です。現在の暦の五月はさわやかな季節ですが、陰暦では梅雨に当たります。橘やほととぎすの季節です。ほととぎすは、夏の到来を知らせる鳥として詩歌にたくさん詠まれていますが、冥途へ行き来をすると考えられていました。「ほととぎす死出の山路を暗きよりいかで皐月の闇に来つらむ（ほととぎすは死出の山路を冥途からどうやって皐月の闇の中をやって来たのだろう」（新千載集）という歌があります。冥途〔めいど：「冥」は暗い意〕は、死者の霊魂が行く暗黒の世界です。「死出の山」は、冥途にあるという、死者が越えて行かなければならない険しい山のことです。「恋しき人」は男宮のことですが、「恋し」は、思いを寄せる人が今ここにいないことに対する苦しい心情を表わす言葉です。伊勢の切ない気持ちが感じ取れます。
＊＊
その後の伊勢は、親しくお仕えした宇多天皇女御の藤原温子が九〇七（延喜七）年に亡くなり、宇多天皇の第四皇子敦慶親王〔あつよし〕との間に、歌人として知られる中務〔なかつかさ〕を生みました。このあたりの詳しい説明を、岩波『日本古典文学大辞典』の「伊勢」の項目から引用しましょう。さらに心から敬愛していた女御温子も、延喜七年（九〇七）に薨じ、残された伊勢は傷心の日々を送っていたようだが、続いて温子が生んだ女一宮均子内親王のもとに仕えるようになったらしい。しかしその均子内親王も延喜十年に薨じた。内親王は異母兄にあたる式部卿敦慶親王の妃であったので、伊勢も親王の邸に居住していたのであろう、おそらくは延喜十二年頃に、親王の子、中務（なかつかさ）を生んだ。その親王が、延長八年（九三〇）二月に、四十四歳でこの世を去る。伊勢はおそらくその時、五十六、七歳であっただろう。「かなしさぞまさりにまさる人の身にいかに多かる涙なるらむ」など、親王を惜しむ切々たる歌を家集に残している。没年は未詳だが、天慶元年に勤子内親王の薨去にあたって和歌をよんでいるので、その頃まで生存していたことは確かである。
岩波『日本古典文学大辞典』「伊勢」
「天慶元年」は九三八年です。延長八年（九三〇）に「五十六、七歳であっただろう」ということですから、天慶元年には六十四、六十五歳ということになります。『撰集抄』の「世の中過ぎわびて、都にも住みうかれなんどして、世に経べきたづきもなく侍りける」という「伊勢」とは、やはり別人であるようです。
伊勢は、歌合や屏風絵などの晴〔はれ：公の場〕の歌の第一人者でした。『源氏物語』桐壺で、桐壺更衣が亡くなった後、桐壺帝が悲しんでいる部分で、
〔本文〕
この頃、明け暮れ御覧ずる長恨歌〔ちゃうごんか〕の御絵、亭子〔ていじ〕の院の描かせ給ひて、伊勢、貫之〔つらゆき〕に詠ませ給へる、大和〔やまと〕言〔こと〕の葉をも、唐土〔もろこし〕の詩〔うた〕をも、ただその筋をぞ、枕言〔まくらごと〕にせさせ給ふ。
〔訳例〕
この頃、明けても暮れても御覧になる長恨歌の御絵、亭子の院が描かせなさって、伊勢や紀貫之に詠ませなさった、日本の歌をも、中国の詩をも、ただただその関係のものを、いつも口にしていらっしゃる。
と語られていますが、『伊勢集』には、亭子の院が描かせた長恨歌屏風に伊勢が十首の歌を詠んだことが記されています。『後撰和歌集』では紀貫之の七十四首に次ぐ七十首が入集しているので、『源氏物語』の「伊勢、貫之に詠ませ給へる」とある記述が納得できます。伊勢は、『古今和歌集』では二十二首、『拾遺和歌集』では二十五首で、『後撰和歌集』を含めて、それぞれ女性の歌人としては最多だということです。『古今和歌集』以下の勅撰集に百八十四首入集しています。
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伊勢の娘の中務が藤原義孝の連歌の話に出て来ます。（２００５年度北海道大学から）
〔本文〕
昔、一条摂政〔せっしゃう〕の御もとにて、人々連歌〔れんが〕侍〔はべ〕りけるに、
秋はなほ夕まぐれこそただならね
といふ句の出〔い〕でたりけるを、人々声を加へてたびたびになり侍りけれど、付くる人も侍らざりけるに、摂政殿の御子に、義孝〔よしたか〕少将〔せうしゃう〕とて十三になり給〔たま〕ひけるが、
荻〔をぎ〕の上風〔うはかぜ〕萩〔はぎ〕の下露〔したつゆ〕
と付け給へりければ、殿おほきに御感〔ぎょかん〕侍りて、「これをばうち籠〔こ〕めてはあるべきか」とて、またの日、「この小冠者〔こくゎんじゃ〕、しかしか仕〔つかまつ〕り侍り」とて、御堂〔みだう〕の殿へ「かく」と聞こえ奉〔たてまつ〕り給ふに、「子〔こ〕はよくいとほしきものにて侍りけり」とばかり仰せられて、ことなる御詞〔ことば〕もなく、なほざりがてらに、「かへすがへすおもしろく侍り」とばかりぞ、申させ給へりける。
一条殿、思〔おぼ〕しけるは、「年のほどよりもゆゆしくし給へりなんど、ねんごろならむずらむ」と思しけるに、なほざりがてらの返事〔かへりごと〕にて侍りければ、よに本意ならず思し召して、また上東門院〔じゃうとうもんゐん〕へ、かくと申させ給ふに、中務〔なかつかさ〕と聞きし歌詠みの女房の奉りの返事に、いとこまかに、ことにありがたくて、「人丸〔ひとまる〕赤人〔あかひと〕が、昔のめでたかりし人々の、ふたたび生まれたるか」などまで、返事ありけるに、中務の、私〔わたくし〕にかく申し添へたり。
荻の葉に風おとづるる夕べには
萩の下露置きぞ増しぬる
と侍りけるも、をかしきさまして侍り。まことやらん、その頃はこのことをぞ、天下〔てんが〕のやさしきわざには申し侍りける。
『撰集抄』八・二五
〔訳例〕
昔、一条摂政の所で、人々が連歌をしました時に、
秋はやはり夕暮れ時がすばらしい
という句が出ていたのを、人々は声をそろえて吟ずることが度々になりましたけれども、句を付ける人もございませんでした時に、摂政殿の御子息に、義孝少将といって十三歳におなりになったのが、
荻の上風、萩の下露
とお付けになっていたので、摂政殿はたいそう感心なさいまして、「これを披露せずにおいてよいものか」ということで、翌日、「この小冠者がこのように詠んでおります」と言って、御堂の殿へ「これこれ」と申し上げなさると、「子はとても愛おしいものでございましたなあ」とだけおっしゃって、これといったお言葉もなく、気にも留めずに、「とても素晴らしいです」とだけ申し上げなさっていた。
一条殿がお思いになったことは、「年齢の程度よりはみごとにお詠みになっているなど、心の籠もった返事をなさるだろう」とお思いになったのに、気にも留めない言葉でございましたので、まったく不本意にお思いになって、また上東門院へこれこれと申し上げなさると、中務と聞いた歌詠みの女房が取り次ぎ申し上げた返事に、とても丁寧に、言葉はめったにないほどで、「人麻呂や赤人が、昔に素晴らしかった人々が、ふたたび生まれたのか」などまで、上東門院の返事があった所に、中務が、個人的にこのように詠み添えている。
荻の葉に風が音を立てる夕暮れ時には
萩の下露がますます降りたことだ。
とございましたのも、優美なさまに書いてあります。本当だろうか、その頃はこのことをこの上ない風流なことと申しました。
〔解説〕
一条摂政とは藤原伊尹〔これまさ：九二四〜九七二〕です。藤原忠平の孫、師輔〔もろすけ〕の長男で、弟に兼通、兼家、妹に村上天皇中宮安子などがいます〔：略系図〕。『後撰和歌集』編纂の時には和歌所の別当〔：責任者〕になり、大中臣能宣〔おおなかとみのよしのぶ〕、清原元輔〔きよはらのもとすけ〕、源順〔みなもとのしたごう〕、紀時文〔きのときふみ〕、坂上望城〔さかのうえのもちき〕のいわゆる梨壺〔なしつぼ〕の五人が撰者となっていました。藤原伊尹は勅撰和歌集に三十七首入集している勅撰集歌人で、家集『一条摂政御集』があります。「百人一首」には、「あはれとも言ふべき人はおもほえで身のいたづらになりぬべきかな」（拾遺集）が採られています。
義孝少将は藤原義孝〔よしたか：九五四〜九七四〕で、藤原伊尹の三男とも四男とも。藤原行成の父親です。『百人一首』に「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」（後拾遺集）の歌が採られています。流行の疱瘡に罹り、二十一歳の若さで九七四（天延二）年に亡くなりました。
「上東門院」とは藤原彰子〔しょうし：九八八〜一〇七四〕でしょうから、「御堂の殿」は藤原道長〔：九六六〜一〇二七〕でしょう。ただし、藤原道長が生まれたのは、ちょうどこの話の藤原義孝〔：九五四〜九七四〕が十三歳の時〔：九六六（康保三）年〕ですから、このあたりからこの話が作り話であることに気付きます。藤原彰子が生まれるのはまだまだ先の九八八（永延二）年、入内したのは九九九（長保元）年です。
伊勢の娘の中務については、藤原伊尹と中務の娘は婚姻関係があるが、中務が彰子の女房であった事実はないと、注釈があります。岩波『日本古典文学大辞典』の「中務」の項目には、「村上天皇の御代から円融天皇の時代まで、帝王や権門から屏風歌や『天徳四年内裏歌合』『村上御時菊合』『麗景殿女御歌合』『円融院扇合』などの歌合歌を召されることがはなはだ多く、母の伊勢をついで、当時最高の女流専門歌人と評価されていたことが知られる」とあります。家集は『中務集』、『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に六十九首ほど入集しているということです。
人丸赤人は、柿本人麻呂と山辺赤人です。この二人は『古今和歌集』仮名序で「人麿は、赤人が上〔かみ〕に立たむこと難〔かた〕く、赤人は、人麻呂が下〔しも〕に立たむこと難くなむありける」と述べられていて、この分かりにくい説明の要点は柿本人麻呂と山辺赤人は同等であるということです。新大系『古今和歌集』には「人麿と赤人を万葉時代の代表とするのは平安人の一般通念」であると注釈があります。『撰集抄』の「人丸赤人が、昔のめでたかりし人々の、ふたたび生まれたるか」は、この流れの中にあるほめ言葉であると理解しておきましょう。
＊
この話の種は、藤原義孝〔よしたか〕の家集『義孝集』にある次の歌です。
秋の夕暮れ秋はなほ夕まぐれこそただならね
荻〔をぎ〕の上風〔うはかぜ〕萩〔はぎ〕の下露〔したつゆ〕『義孝集』
この歌は『和漢朗詠集』秋にも採られています。特に下の句の「荻の上風萩の下露」の対の表現が優れているということで、『栄花物語』（とりべ野）の「かくて八月ばかりになれば、皇后宮にはいともの心細く思されて、明暮は御涙にひちて、あはれにて過ぐさせ給ふ。荻の上風萩の下露もいとど御耳にとまりて過ぐさせ給ふにも」のように下の句だけが引用されることがあるので、連歌仕立ての説話になったのでしょう。
連歌とは、和歌の上の句（五七五）と下の句（七七）を二人が詠み合わせて、当意即妙の応答を楽しむ文芸です。平安時代には一回きりのものが多く、短連歌と呼ばれています。この『撰集抄』の藤原義孝の話の形式がそれに当たります。人々が気の利いた句を付けられなかった時に、藤原義孝がすばらしい句を付けたということです。実際、どのようなものであったのかは、「和歌を読もう」の「短連歌」を参照してください。
院政期以降、三十六句、五十句、百句と続ける長連歌（鎖連歌）が行われるようになり、室町時代に最盛期を迎えます。二条良基〔よしもと〕、心敬〔しんけい〕、宗祇〔そうぎ〕などによって文学の一形式として完成されました。国宝級の作品として『水無瀬三吟百韻〔みなせさんぎんひゃくいん〕』があります。
『撰集抄』の藤原義孝の話は、作り話と言ってしまえばそれまでですが、藤原義孝の和歌を短連歌に仕立てて、藤原伊尹の親馬鹿ぶり、藤原道長のそっけない対応、その逆に、藤原彰子や中務の心の籠もった対応を、一つの話としてまとめあげる手際を楽しんだらよいのでしょう。
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一条摂政藤原伊尹はどんな歌を詠んでいたのでしょうか。（１９９５年度奈良女子大学から）
〔本文〕
今は昔、一条摂政〔いちでうせっしゃう〕とは東三条殿〔とうさんでうどの〕の兄〔せうと〕におはします。御かたちよりはじめ、心用ゐなどめでたく、才〔ざえ〕ありさま、まことしくおはしまし、また色めかしく、女をも多く御覧じ興ぜさせ給〔たま〕ひけるが、すこし軽々〔きゃうきゃう〕におぼえさせ給ひければ、御名を隠させ給ひて大蔵丞〔おほくらのじょう〕豊蔭〔とよかげ〕と名乗りて、上〔かみ〕ならぬ女のがりは、御文〔ふみ〕もつかはしける。懸想〔けさう〕せさせ給ひ、逢はせ給ひもしけるに、皆人さ心得て知り参らせたり。
やむごとなくよき人の姫君のもとへ、おはしましそめにけり。乳母〔めのと〕母などを語らひて、父には知らせさせ給はぬほどに、聞き付けていみじく腹だちて、母をせため爪弾〔つまはじき〕きをして、いたくのたまひければ、「さることなし」とあらがひて、「まだしき由〔よし〕の文書きて賜〔た〕べ」と、母君のわび申したりければ、
人知れず身は急げども年を経〔へ〕て
など越えがたき逢坂〔あふさか〕の関
とて、つかはしたりければ、父に見すれば、「さては、そらごとなりけり」と思ひて、返し、父のしける、
東路〔あづまぢ〕に行きかふ人にあらぬ身は
いつかは越えん逢坂の関
「豊蔭見て、ほほゑまれけんかし」と御集〔ぎょしふ〕にあり。をかしく。
『宇治拾遺物語』五一
〔訳例〕
今は昔、一条摂政とは東三条殿の兄でいらっしゃる。お顔立ちから始め、心配りなどすばらしく、学識や姿は、本格的でいらっしゃり、また色好みで、女をも多くお逢いになり楽しみなさったのが、すこし身分にふさわしくなく感じられなさったので、お名前を隠しなさって大蔵丞豊蔭と名乗って、上流ではない女の所は、お手紙もおやりになった。恋愛をなさり、お逢いになりもしたので、お側の人は皆そう心得て承知し申し上げた。
重々しく身分の高い人の姫君のもとへ、通い始めなさってしまった。乳母や母などを味方につけて、父には知らせなさらないうちに、父が聞き付けてひどく腹を立てて、母を責め爪弾きをして、ひどくおっしゃったので、「そういうことはない」と言い争って、「まだ逢ってない旨の手紙を書いてください」と、母君が困り果てて、一条摂政に頼み込んだので、
誰にも知られずに我が身は急ぐけれども何年も経って
どうして越えられない逢坂の関
と書いて、姫君におやりになっていたので、母君はそれを父に見せると、「それでは、うそであったなあ」と思って、返事は父がした、
東路に行き来する人でない身の上は
いつ越えることができるだろうか、逢坂の関を
「豊蔭が見て、思わず微笑んだだろうよ」と御集にある。おもしろく。
〔解説〕
一条摂政藤原伊尹〔これまさ：九二四〜九七二〕については「その３」の解説を参照してください。東三条殿は藤原兼家〔かねいえ：九二九〜九九〇〕です。道長の父であるので、ここで紹介されているのでしょう。大蔵丞とは大蔵省の三等官です。
「色めかしく」は、「色好みで」と訳しておきましたが、現代語の色好みとはまったく違います。恋愛のさまざまな情趣を深く理解して洗練された恋愛ができる人のことです。平安時代には男にも女にも言って、容貌・態度・性格・人柄が優れ、和歌や音楽にも堪能で、恋に一途に生きる人を意味して、貴族らしい雅びな趣味の持ち主であると賞賛されました。恋愛の情趣を尊ぶ美的理念であることに留意しないといけません。「皆人さ心得て知り参らせたり」とは、よい趣味の持ち主だなあと、周囲の人が理解していたということです。
「乳母〔めのと〕」は、貴人の母親に代って貴人の子に乳を飲ませて養育する女性ですが、乳を飲ませて養育するだけではなく、貴人の子の教育をし、恋愛や結婚にまで発言権を持ち、実の母親以上に深い絆で結ばれることも多くあるので、貴人にとって乳母の人選は重要課題でした。
「爪弾き」は、人さし指、または中指の爪を親指の腹に当ててはじくことで、気にくわない時や、忌み嫌う時などにするしぐさです。
「逢坂」は逢坂の関です。六四六（大化二）年に設置され、七九五（延暦十四）年に廃止されたのですが、和歌では、男女が逢うの「逢ふ」との掛詞として用いて、「逢坂の関を越ゆ」で男女が契りを結ぶことを表わしました。
「人知れず…」の歌意は、何年もあなたを恋い慕っているけれども、どうして深い仲になれないのだろうということです。「東路に…」の歌意は、逢坂の関が京から東国への通り道であったことを下敷きにして、東路に行き来する人でない身の上はいつまでも逢坂の関を越えられないのと同じように、あなたは私と深い仲にはなれないだろうということです。「いつかは」は、現代語の「いつかは」ではなく、「いつ＋か＋は」で、「か」は係助詞、「か」「む（ん）」の係り結びで、反語表現です。
「御集〔ぎょしゅう〕」とは、藤原伊尹の家集『一条摂政御集〔いちじょうせっしょうぎょしゅう〕』のことです。豊蔭を主人公とする多くの女性との贈答歌を中心とする歌物語風の部分は、藤原伊尹の自撰であるとも言われています。「豊蔭見て、ほほゑまれけんかしと御集にあり」とありますが、『一条摂政御集』には、「女、かたはらいたかりけんかし。人の親のあはれなることよ」とあるだけです。ここの「かたはらいたし」は、そばで見ていて心が痛むです。
この歌のやり取りが二番目の勅撰和歌集『後撰和歌集』に採られています。『後撰和歌集』は摂関家の貴公子と女性たちの贈答歌が多く採られているのが特色です。
女のもとにつかはしける 伊尹の朝臣〔あそん〕人知れぬ身は急げども年を経て
など越えがたき逢坂の関返し 小野好古〔をののよしふる〕朝臣女〔あそんのむすめ〕東路に行きかふ人にあらぬ身は
いつかは越えん逢坂の関『後撰和歌集』恋三
『後撰和歌集』では小野好古〔おののよしふる：八八四〜九六八〕の娘が返歌を詠んだことになっているので、「やむごとなくよき人」とは小野好古であることが分かります。
小野好古は、小野妹子〔いもこ〕の子孫、小野篁〔たかむら〕の孫、小野道風〔とうふう〕の兄です。十世紀前半の承平〔じょうへい〕天慶〔てんぎょう〕年間〔：九三一〜九四七〕に、関東で平将門〔たいらのまさかど〕、瀬戸内海で藤原純友が、東西でほぼ同時に反乱を起こしました。これは承平天慶の乱と呼ばれていますが、小野好古は、藤原純友〔ふじわらのすみとも〕の乱の追捕使〔ついぶし〕となって、九四一（天慶四）年に筑前国の博多津（福岡市）で藤原純友の軍を破り、乱を平定しています。
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「百人一首」に採られた藤原伊尹〔これまさ〕の「あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」が、『一条摂政御集』の最初にあります。ある女との贈答歌になっているので、読んでみましょう。
〔本文〕
大蔵史生〔おほくらのししゃう〕倉橋豊蔭〔くらはしのとよかげ〕、くちをしき下衆〔げす〕なれど、若かりける時、女のもとに言ひやりけることどもを書き集めたるなり。公事〔おほやけごと〕騒がしうて、をかしと思ひけることどもありけれど、忘れなどして、後〔のち〕に見ればことにもあらずぞありける。
言ひかはしけるほどの人は、豊蔭に異〔こと〕ならぬ女なりけれど、年月を経〔へ〕て返事〔かへりごと〕をせざりければ、負けじと思ひて言ひける、
あはれとも言ふべき人は思ほえで
身のいたづらになりぬべきかな
女、からうじてこたみぞ、
なにごとも思ひ知らずはあるべきを
またはあはれと誰か言ふべき
はやうの人は、かうやうにぞありける。今やうの若い人はさしもあらで、上衆〔じゃうず〕めきてやみなんかし。
『一条摂政御集〔いちでうせっしゃうぎょしふ〕』
〔訳例〕
大蔵史生倉橋豊蔭は、しがない下級役人であるけれども、若かった時、女のもとに詠んで贈った歌どもを書き集めたものである。朝廷の仕事が忙しくて、おもしろいと思った歌どももあったけれど、忘れなどして、後で見ると大したものでもなかったなあ。
付き合いをしたほどの人は、豊蔭と違わないぱっとしない女であったけれども、女は何年も返事をしなかったので、豊蔭が負けまいと思って詠んで贈った歌、
気の毒だと言いそうな人は思い当たらずに
我が身はむなしくなってしまいそうだなあ。
女が、やっと今度、返歌を贈ってきた。
どんなことも知らなかったならば、言うに違いないけれども
今改めて気の毒だと誰が言うだろうか、いや、言うはずはないだろう。
昔の人はこのようであった。今風の若い人はそうでもなくて、上品に振る舞って、女に同情を求めるような手紙を出さずに、そのまま何もしないで終わってしまうだろうよ。
〔解説〕
『一条摂政御集』は藤原伊尹〔これまさ：九二四〜九七二〕の私家集ですが、第一部の歌物語風の部分は藤原伊尹自身の執筆だと考えられています。『大鏡』伊尹には「この大臣〔おとど〕は、一条摂政と申しき。これ、九条殿〔：師輔〕の一男〔いちなん〕におはします。いみじき御集〔ぎょしふ〕作りて、豊蔭と名乗らせ給〔たま〕へり」とあって、倉橋豊蔭はよく知られていたようです。
十世紀中ごろには『伊勢物語』や『大和物語』が成立したと考えられていますが、伊勢・大和だけではなく、『伊勢集』や『一条摂政御集』でも同様な歌物語風な記述の部分が見られました。歌物語がたくさん生まれる大きな流れがあったのでしょう。
「大蔵史生〔おおくらのししょう〕」とは大蔵省の四等官のもとで文書の整理などをした下級役人です。「後に見ればことにもあらずぞありける」は筆者藤原伊尹の謙遜の言葉です。
「あはれとも…」の歌は、「百人一首」に採られた歌ですが、逐語訳では十分ではありません。状況を考慮して言葉を補ってみると、「私に同情の言葉を掛けてくれそうな女性はあなた以外に思い浮かばないけれども、あなたは私を見限って何年も返事をくれないままなので、私は切ない思いのあまりにむなしく死んでしまいそうだなあ」といったところでしょうか。「いたづらになる」は、死ぬことを遠回しに言う表現で、ほかに「むなしくなる」「はかなくなる」などがあります。
この歌は『拾遺和歌集』にも採られていて、「もの言ひ侍〔はべ〕りける女の後〔のち〕につれなく侍りて、さらに逢はず侍りければ（付き合っていました女が後で薄情になって、まったく逢わずにおりましたので）」という詞書があります。
「なにごとも…」の歌も言葉を補ってみましょう。「私が、どんなこともまだよく知らない、うぶな頃であったならば、あなたに同情の言葉を掛けたでしょうけれども、あなたとの数年間の仲で、もの思いを限りを尽くしていますから、今改めて誰が同情の言葉を掛けるでしょうか、いや、あなたに同情の言葉など掛けはしませんよ」といったところでしょうか。手厳しい返事ですね。「負けじと思ひて言ひける」とあるので、豊蔭はともかく女から返事をもうらおうと詠んだようなので、とりあえずの目的は達成したようです。
「はやうの人は、かうやうにぞありける。今やうの若い人はさしもあらで、上衆めきてやみなんかし」は、『伊勢物語』の第一段の「昔人は、かくいちはやき雅びをなむしける（昔の人は、このように激しい風流をした）」、第四〇段の「昔の若人は、さる好けるもの思ひをなむしける。今の翁、まさにしなむや（昔の若人は、そういう一途な恋愛をした。昔若かった今の年寄りは、どうしてできようか、いや、とてもできないだろう）」のパロディです。藤原伊尹は『一条摂政御集』を相当気合いを入れて書いていただろうことが想像されます。
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「その４」の『宇治拾遺物語』で藤原伊尹が「人知れず…」の歌を贈ったのが小野好古の娘でしたが、小野好古とのつながりで、檜垣〔ひがき〕の御〔ご〕の話を読んでみましょう。
〔本文〕
筑紫〔つくし〕にありける檜垣〔ひがき〕の御〔ご〕と言ひけるは、いとらうあり、をかしくて世を経〔へ〕たる者になむありける。年月かくてありわたりけるを、純友〔すみとも〕が騒ぎにあひて、家も焼けほろび、物の具〔ぐ〕も皆取られはてて、いといみじうなりにけり。
かかりとも知らで、野大弐〔やだいに〕、討手〔うて〕の使に下〔くだ〕り給〔たま〕ひて、それが家のありしわたりを尋ねて、「檜垣の御といひけむ人に、いかであはむ。いづくにか住むらむ」とのたまへば、「このわたりになむ住み待〔はべ〕りし」など、供なる人も言ひけり。「あはれ、かかる騒ぎにいかがなりにけむ。尋ねてしがな」とのたまひけるほどに、頭〔かしら〕白き嫗〔おうな〕の水汲めるなむ、前よりあやしきやうなる家に入りける。ある人ありて、「これなむ檜垣の御」と言ひけり。いみじうあはれがり給ひて呼ばすれど、恥ぢて来〔こ〕で、かくなむ言へりける。
むばたまのわが黒髪は白川の
みづはくむまでなりにけるかな
と詠みたりければ、あはれがりて、着たりける衵〔あこめ〕一襲〔ひとかさね〕、脱ぎてなむやりける。
『大和物語』一二六
〔訳例〕
筑紫にいた檜垣の御と言った者は、とても経験豊富で、風流にして暮らした者であった。長年、こうして暮らし続けたけれども、純友の騒ぎに遭って、家も焼けてなくなり、家財道具もすっかり取られて、とてもひどい暮らしになってしまった。
このようであるとも知らずに、野大弐が、純友の討手の使として下りなさって、その家のあった辺りを探して、「檜垣の御と言った人になんとかして会いたい。どこに住んでいるのだろうか」とおっしゃると、「この辺りに住んでおりました」など、供である人も言った。「ああ、このような騒ぎでどのようになってしまったのだろう。探したいなあ」とおっしゃった時に、頭の白い老女の、水を汲んだ者が、前を通ってみすぼらしい家に入った。たまたまいる人が、「これが檜垣の御」と言った。たいそう気の毒に思って呼ばせるけれども、檜垣の御は恥ずかしがってやって来ずに、このように言っていた。
私の黒髪は、たいそう年を取って白髪になり、白川の
水を自分で汲むまで落ちぶれてしまったなあ。
と詠んでいたので、野大弐は心動かされて、着ていた袙〔あこめ〕を一襲〔ひとかさね〕脱いで与えた。
〔解説〕
「檜垣〔ひがき〕の御〔ご〕」は、承平天慶の頃の遊女だということです。「檜垣の御といひけむ人に、いかであはむ」とありますから、都まで名を知られていたことが分かります。
「野大弐」が小野好古です。大弐とは、大宰府の次官です。ただし、大宰府の長官（帥〔そち〕）は親王を任命するのが慣例で、実際に赴任はしなかったので、大弐が実質的に長官の役割をしました。小野好古が大弐であったのは九四五（天慶八）年から九五〇（天暦四）年までと、九六〇（天徳四）年から九六五（康保二）年で、藤原純友の乱の後のことです。
本文では「あはれがり」が二回出てきます。一つ目の「いみじうあはれがり給ひ」は、老婆が水を汲んで運んでいるのを気の毒に思ったということですが、二つ目の「詠みたりければ、あはれがりて」は、老婆に同情したのではなく、老婆の詠んだ歌がすばらしいので感動したということです。よい歌を詠んだ時に、「かづけもの（被物）」と言って、衣服を与えることがよくありました。
その和歌ですが、「むばたまの」が枕詞、ここでは黒髪を導き出しています。「白川」は川と白髪の「しら」との、「みづはくむ」は「水は汲む」と年老いる意の「みづはくむ」との掛詞になっています。「私の黒髪は、たいそう年を取って白髪になる」と「白川の水を自分で汲むまでになってしまった」という二つの意味のつながりが詠みこまれています。本文の最初に「純友〔すみとも〕が騒ぎにあひて、家も焼けほろび、物の具も皆取られはてて、いといみじうなりにけり」とあるので、檜垣の御が零落してしまったことが分かります。
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「その３」で短連歌をしていた藤原義孝のその後の話です。（２０２２年度立命館大学、１９９４年度関西大学から）
〔本文〕
男君〔をとこぎみ〕たちは、代明〔よあきら〕の親王〔みこ〕の御女〔むすめ〕の腹に、前少将〔ぜんせうしゃう〕挙賢〔たかかた〕、後少将〔ごせうしゃう〕義孝〔よしたか〕とて、花を折り給〔たま〕ひし君たちの、殿失〔う〕せ給ひて、三年ばかりありて、天延〔てんえん〕二年甲戌〔きのえいぬ〕の年、皰瘡〔もがさ〕おこりたるにわづらひ給ひて、前少将は朝〔あした〕に失せ、後少将は夕〔ゆふべ〕に隠れ給ひにしぞかし。一日〔ひとひ〕がうちに、二人の子を失ひ給へりし母北の方の御心地、いかなりけむ。いとこそ悲しく承りしか。
かの後少将は、義孝とぞ聞こえし。御かたちいとめでたくおはし、年ごろ極めたる道心者〔だうしんざ〕にぞおはしける。病重くなるままに、生〔い〕くべくもおぼえ給はざりければ、母上に申し給ひけるやう、「おのれ死に侍〔はべ〕りぬとも、とかく例〔れい〕のやうにせさせ給ふな。しばし法華経〔ほけきゃう〕誦〔ずん〕じ奉〔たてまつ〕らむの本意侍れば、かならず帰りまうで来べし」とのたまひて、方便品〔はうべんぼん〕を読み奉り給うてぞ、失せ給ひける。その遺言を、母北の方忘れ給ふべきにはあらねども、ものもおぼえでおはしければ、思ふに人のし奉りてけるにや、枕返し何やと、例のやうなるありさまどもにしてければ、え帰り給はずなりにけり。後〔のち〕に、母北の方の御夢に見え給へる、
しかばかり契りしものを渡り川
帰るほどには忘るべしやは
とぞ詠み給ひける。いかにくやしく思〔おぼ〕しけむな。
さて後、ほど経〔へ〕て、賀縁〔がえん〕阿闍梨〔あざり〕と申す僧の夢に、この君たち二人おはしけるが、兄前少将いたうもの思へるさまにて、この後少将はいと心地よげなるさまにておはしければ、阿闍梨、「君はなど心地よげにておはする。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひ聞こえ給ふめれ」と聞こえければ、いとあたはぬさまのけしきにて、
時雨〔しぐれ〕とは蓮〔はちす〕の花ぞ散りまがふ
なに故郷に袖濡らすらむ
など、うち詠み給ひける。
さて後に、小野宮の実資〔さねすけ〕の大臣〔おとど〕の御夢に、おもしろき花の蔭におはしけるを、うつつにも語らひ給ひし御仲にて、「いかでかくは。いづくにか」と、めづらしがり申し給ひければ、その御いらへに、
昔は契りき、蓬莱宮〔ほうらいきゅう〕の裏〔うち〕の月に
今は遊ぶ、極楽界の中の風に
とぞのたまひける。極楽に生れ給へるにぞあんなる。かやうにも夢など示い給はずとも、この人の御往生〔わうじゃう〕疑ひ申すべきならず。
『大鏡』伊尹〔これまさ〕
〔訳例〕
御子息たちは、代明親王のお嬢さんを母として、前少将挙賢、後少将義孝と言って、華やかに振る舞いなさった御子息が、殿〔：藤原伊尹〕がお亡くなりになって、三年ほどして、天延二〔九七四〕年甲戌〔きのえいぬ〕の年に、疱瘡が流行したのに罹りなさって、前少将は朝に亡くなり、後少将は夕方にお亡くなりになってしまったよ。一日のうちに、二人の子を失いなさっていた母北の方のお気持ちは、どのようであったのだろう。とても悲しくお聞きした。
あの後少将は、お名前を義孝と申し上げた。お顔立ちがとてもすばらしくいらっしゃり、長年熱心な仏教の信者でいらっしゃった。病が重くなるにつれて、生きていることができそうにも感じられなさらなかったので、母上に申し上げなさったことは、「私が死んでしまいましても、あれこれ作法のようになさいますな。もうしばらくこの世で法華経をお読み申し上げようと思う念願がございますので、かならず戻って参りますつもりだ」とおっしゃって、『法華経』の方便品をお読み申し上げなさって、お亡くなりになった。その遺言を、母北の方がお忘れになるはずではないけれども、茫然としていらっしゃったので、考えてみると事情を知らない人が扱い申し上げてしまったのだろうか、枕返しや何やかやと、作法のとおりであるありさまどもにしてしまったので、お帰りになることができなくなってしまった。後で、後少将が母北の方の御夢に現われなさった時には、
あれほど約束をしたのに三途の川から
戻って来る間に忘れてよいはずがあろうか。
とお詠みになった。母北の方はどんなにか残念にお思いになったのだろうよ。
そうして後、しばらくして、賀縁阿闍梨と申し上げる僧の夢に、この御子息二人がいらっしゃったのが、兄の前少将はひどくもの思いをしている様子で、この後少将はとても気分よさそうな様子でいらっしゃったので、阿闍梨が、「あなたはどうして気分よさそうでいらっしゃるのか。母上は、あなたを兄君よりはひどく恋しく思い申し上げなさるようだ」と申し上げたところ、まったく納得がいかない様子の表情で、
時雨とは極楽浄土では蓮の花が散り乱れることだ。
どうして故郷で涙の時雨で袖を濡らしているのだろうか。
など、お詠みになった。
そうして後に、小野宮の実資の大臣の御夢に、後少将がみごとな花の蔭にいらっしゃったのを、生前にも親しくなさった御仲で、「どうしてこのようにはしていらっしゃるのか。どこにいらっしゃるのだろうか」と、めずらしく思って申し上げなさったので、そのお返事に、
昔は蓬莱宮のような宮中で親しくしていただきました。
今は極楽世界で花を吹く風の中で気ままに過ごして遊んでいます。
とおっしゃった。極楽浄土に生まれなさっているのであるようだ。このようにも夢などお示しにならなくても、この人の極楽への御往生は疑い申し上げることができることでない。
〔解説〕
後少将義孝〔よしたか：九五四〜九七四〕は、「その３」で「秋はなほ夕まぐれこそただならね」に「荻の上風萩の下露」の句を付けていた義孝少将です。
九七四（天延二）年には疱瘡〔：天然痘〕が流行しました。このことは、『蜻蛉日記』や『栄花物語』に記されています。
〔本文〕
（天延二年）八月になりぬ。この世の中は、皰瘡〔もがさ〕おこりてののしる。二十日のほどに、このわたりにも来にたり。助、言ふ方なく重くわづらふ。
皰瘡、世界にもさかりにて、この一条の太政〔だいじゃう〕の大殿〔おほとの〕の少将二人ながら、その（九）月の十六日に亡くなりぬと言ひ騒ぐ。
『蜻蛉日記』下今年は世の中に皰瘡〔もがさ〕といふもの出〔い〕で来て、よもやまの人、上下〔かみしも〕病みののしるに、公私〔おほやけわたくし〕いといみじきことと思へり。やむごとなき男女〔をとこをむな〕失〔う〕せ給〔たま〕ふたぐひ多かりと聞こゆる中にも、前摂政殿の前少将〔ぜんせうしゃう〕、後少将〔ごせうしゃう〕、同じ日うち続き失せ給ひて、母北の方あはれにいみじう思〔おぼ〕し嘆くことを、世の中のあはれなることの例〔ためし〕には言ひののしりたり。まねび尽くすべくもあらず。
『栄花物語』花山たづぬる中納言〔訳例〕
（天延二年）八月になった。この世の中は、疱瘡がはやって大騒ぎである。二十日の頃に、この付近にも来てしまった。助〔：作者の子の藤原道綱〕は、言いようもなくひどく患う。
疱瘡が、世の中でまっ盛りで、この一条の太政大臣〔：藤原伊尹〕の少将が二人とも、その（九）月の十六日に亡くなったと、言い騒ぐ。今年は世の中で疱瘡というものがはやって、世間の人は、身分の高い人も低い人も患って大騒ぎであるので、朝廷でも個人でもとても大変なことと思っている。重々しい身分の男も女もお亡くなりになる方々が大勢いると噂になる中でも、前摂政殿〔：藤原伊尹〕の前少将と後少将が同じ日に続いてお亡くなりになって、母北の方は気の毒なことに悲しみなさることを、世の中の気の毒なことの例としては盛んに取り沙汰している。すべて伝えることはできそうもない。
『蜻蛉日記』では、「九月朔日におこたりぬ」と、藤原道綱が回復したことが記されているのですが、前少将挙賢と後少将義孝は回復せず、九月十六日に亡くなってしまいました。
「方便品〔ほうべんぼん〕」は『法華経〔ほけきょう〕』の第二章です。なぜ『法華経』なのかは、『大鏡』と同じ頃に成立した『今昔物語集』に「僧源尊、冥土に行き法花〔ほけ〕を誦〔じゅ〕して活〔よみがへ〕ること」という話があって、これが参考になります。「法花」は『法華経』です。あらすじは、
源尊という僧は、『法華経』を普段から読誦していたが、病になって亡くなり、閻魔庁に引き出されたところ、『法華経』を読誦すると、閻魔王以下の冥官が合掌して聞き、この世に戻ることができた。
この話は、法華経の効験説話集『本朝法華験記〔ほんちょうほっけげんき〕』にある話を回想の形に書き直したもので、『法華経』読誦の功徳による蘇生譚のひとつとして内容構成ともに類型的なものだということです。『法華経』読誦と死者の蘇生とは、つながりがあるようです。『今昔物語集』の僧源尊の話には、「法花経の力に依りて、冥途に観音の加護を蒙〔かうぶ〕る」と記されています。後少将義孝は、「幼くよりいみじう道心におはして、法華経を明け暮れ読み奉り給ひて」（『栄花物語』花山たづぬる中納言）ということでしたから、『今昔物語集』の僧源尊の話と同じように蘇生して戻って来るはずだったのでしょう。
「枕返し」とは、亡くなった人を北を枕して寝かせることです。「北枕〔きたまくら〕」とも言います。釈迦が亡くなる時、頭を北にし顔を西に向けて臥したことによると言われています。
「小野宮の実資」は、藤原実資〔さねすけ：九五七〜一〇四六〕です。生年を見ると藤原義孝からは三歳下なので、「昔契蓬萊宮裏月」とあるとおり、親しくしていたのでしょう。藤原実資は小野宮の右大臣と呼ばれ、豪勢な邸に住んだということです。有職故実に通じ、日記『小右記』〔：小野宮右大臣の日記の意〕があります。
「渡り川」とは、冥土にある三途の川〔：人が死んで冥土に行く途中に越えるという川〕のことです。後少将義孝は三途の川から戻って来るつもりだったのに、「枕返し」をされてしまったので、帰って来れなくなってしまったということです。
「え帰り給はずなりにけり」〔：この「なり」は動詞〕とは、蘇生できなくなってしまったということです。当時は、人が死んでもしばらくの間は蘇生するかもしれないと、そのままにして様子を見ることをしたということです。『源氏物語』の葵〔あおい〕の巻では、光源氏の妻の葵の上が亡くなった後、「御物の怪のたびたび取り入れ奉りしを思して、御枕などもさながら二三日見奉り給へど、やうやう変はり給ふことどものあれば、限りと思し果つるほど、誰も誰もいといみじ」と語られていて、二三日様子を見たけれども、やはりだめだったと語られていました。
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その６ 前へ
村上天皇には多くの妻がいました。その中の広幡の御息所の話を読んでみましょう。（１９９６年度名古屋大学から）
〔本文〕
この御中にも、広幡〔ひろはた〕の御息所〔みやすどころ〕ぞ、あやしう心殊〔こころこと〕に、心ばせあるさまに、帝〔みかど〕も思〔おぼ〕し召〔め〕いたりける。内よりかくなん、
逢坂〔あふさか〕も果ては往来〔ゆきき〕の関も居ず
尋ねて訪〔と〕ひ来〔こ〕来〔き〕なば帰さじ
といふ歌を、同じやうに書かせ給〔たま〕ひて、御方々〔かたがた〕に奉〔たてまつ〕らせ給ひけるに、この御返事を方々さまざまに申させ給ひけるに、広幡の御息所は、薫物〔たきもの〕をぞ参らせ給ひたりける。「さればこそ。なほ心ことに見ゆれ」と思し召しけり。いとさこそなくとも、いづれの御方とかや、いみじく仕立てて参り給へりけるはしも、なこその関もあらまほしくぞ思されける。御おぼえも日頃に劣りにけりとぞ聞こえ侍りし。
『栄花物語』月の宴
〔訳例〕
この村上天皇の大勢のお妃方の中でも、広幡の御息所を、並外れて優れ、風流心があるように、村上天皇もお思いになっていた。内裏から、
逢坂の関もついには行き来を妨げる関守もいない。
尋ねて訪れて来い。来てしまったならば帰さないつもりだ。
という歌を、同じようにお書きになって、御方々に差し上げなさったところ、この御返事をお妃方がさまざまに申し上げなさった時に、広幡の御息所は、薫物を差し上げなさっていた。「思ったとおりだ。やはり格別に優れているように思える」とお思いになった。まったくそれほどでなくてもよいけれども、どの御方とかは、たいそう着飾って参上なさったのは、「勿来の関」もあってほしくお思いにならずにはいられなかった。御寵愛も普段とは劣ってしまったと耳にしました。
〔解説〕
村上天皇〔：九二六〜九六七〕は、在位は九四六〜九六七年です。広幡の御息所は、宇多天皇の孫の源庶明〔もろあきら〕の娘の源計子です。
この和歌は沓冠〔くつかぶり〕と呼ばれる詠み方をしています。各句を並べてみると、仕掛けが分かります。
あふさかも
はてはゆききの
せきもいす
たつねてとひこ
きなはかへさし
各句の最初のひらがなと、最後のひらがなをつなげると、「あはせたきものすこし」で、「合わせ薫物〔たきもの〕少し」というメッセージが詠み込まれていることが分かります。「合わせ薫物〔：練香（ねりこう）〕」とは、香木を砕いて蜜で練り合わせた香です。それを少し持って来てほしいということです。広幡の御息所は、この歌にはなにか仕掛けがあるなと気が付いたのでしょう。
「逢坂の関」は、今の京都府と滋賀県との境の逢坂山にあった関所です。六四六（大化二）年に設置され、七九五（延暦十四）年に廃止されたのですが、和歌では、男女が逢うの「逢ふ」との掛詞として用いて、「逢坂の関を越ゆ」で男女が契りを結ぶことを表わしました。
「勿来の関」は、今の福島県いわき市にあった関所です。「な〜そ」の「な来（こ）そ」（来てはいけません）に掛けて、男女の仲を隔てるものとして和歌に詠まれました。「逢坂も…」の歌がもう一つ分かっていない方もいたようで、この時代、どのお妃も和歌に堪能であるというわけではなかったことが分かります。
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和歌がらみでもう一つ、『枕草子』です。定子中宮が村上天皇の頃の話をしています。（２０１０年度関西大学から）
〔本文〕
村上〔むらかみ〕の御時に、宣耀殿〔せんえうでん〕の女御〔にょうご〕と聞こえけるは、小一条の左の大臣殿〔おほいどの〕の御女〔むすめ〕におはしけると、誰〔たれ〕かは知り奉〔たてまつ〕らざらむ。まだ姫君と聞こえける時、父大臣〔おとど〕の教へ聞こえ給ひけることは、「ひとつには御手〔て〕を習ひたまへ。次には琴〔きん〕の御琴〔こと〕を人より殊に弾きまさらむと思〔おぼ〕せ。さては古今〔こきん〕の歌、二十巻〔はたまき〕を、みな浮かべさせ給ふを御学問にはせさせ給へ」となむ聞こえ給ひけると聞こし召しおきて、御物忌〔ものいみ〕なりける日、古今をもてわたらせ給ひて、御几帳〔きちゃう〕を引き隔てさせ給ひければ、女御、「例ならずあやし」と思〔おぼ〕しけるに、御草子〔さうし〕を広げさせ給ひて、「その月、何の折〔をり〕、その人の詠みたる歌はいかに」と問ひ聞こえさせたまふを、「かうなりけり」と心得給ふもをかしきものの、ひがおぼえをもし、忘れたるところもあらば、いみじかるべきことと、わりなう思し乱れぬべし。その方〔かた〕におぼめかしからぬ人、二、三人ばかり召し出でて、碁石〔ごいし〕して数〔かず〕置かせ給ふとて、強〔し〕ひ聞こえさせ給ひけむほどなど、いかにめでたうをかしかりけむ。御前に候ひけむ人さへこそ、うらやましけれ。せめて申させ給へば、さかしうやがて末〔すゑ〕まではあらねども、すべてつゆ違〔たが〕ふことなかりけり。いかでなほ少しひがこと見つけてをやまむと、ねたきまでに思し召しけるに、十巻にもなりぬ。『さらに不用なりけり』とて、御草子に夾算〔けふさん〕さして、大殿籠〔おほとのごも〕りぬるも、まためでたしかし。
いとひさしうありて起きさせ給へるに、「なほこのこと、勝ち負けなくて止〔や〕ませ給はむ、いとわろかるべし」とて、下〔しも〕十巻を、「明日にならば、異〔こと〕をぞ見給ひ合はする」とて、「今日定めてむ」と、大殿油〔おほとなぶら〕参りて、夜更くるまで読ませ給ひける。されど、つひに負け聞こえさせ給はずなりにけり。
「上〔うへ〕わたらせ給ひて、かかる」など、人びと、殿に申し奉りければ、いみじう思し騒ぎて、御誦経〔みずきゃう〕などあまたせさせ給ひて、そなたに向きてなむ念じ暮らし給ひける、すきずきしうあはれなることなり。
『枕草子』清涼殿の丑寅の隅の
〔訳例〕
村上天皇の御治世に、宣耀殿の女御と申し上げた方は、小一条の左大臣殿のお嬢様でいらっしゃると、誰が知り申し上げないだろうか。まだ姫君と申し上げた時、父大臣が教え申し上げなさったことは、「ひとつには御書道を習いなさい。次には琴の御琴を人よりさらに上手に弾こうとお思いなさい。そしてまた『古今和歌集』の歌、二十巻を、すべて暗記なさるのを御学問にはしなさい」と申し上げなさったと、村上天皇がお聞き届けになって、御物忌であった日、『古今和歌集』を持ってお越しになって、御几帳を置いて隔てさせなさったので、女御は、「いつもと違って変だ」とお思いになったところ、御草子を広げなさって、「なになにの月、なになにの時、なになにの人が詠んだ歌はどういうものか」とお尋ね申し上げなさるのを、「こういうわけだった」とお分かりになるのもおもしろいものの、記憶間違いをもし、忘れたところもあったならば、たいそう恥ずかしいことと、ひどく思い悩みなさるに違いない。その方面に不得手でない女房を二三人ほどお呼び出しになって、碁石で数を数えさせなさるということで、無理強いし申し上げなさったという時など、どんなにか素晴らしく趣深かっただろう。御前に伺候した人までもうらやましい。帝が強いて申し上げなさるので、女御は利口ぶってすらすらと下の句までは答えないけれども、すべてすこしも間違うことはなかった。なんとかしてやはり間違いを見付けてから終わりにしようと、にくらしくまでお思いになったうちに、十巻目にもなってしまた。「まったく必要なかった」ということで、御草子にしおりを挟んで、おやすみになってしまったのも、またすばらしいよ。
ずいぶん時間が経ってお起きになった時に、「やはりこのことは、勝ち負けがないままで終わりになさるようなのは、まったくよくないに違いない」ということで、後半の十巻を、「明日になったならば、女御が他の本をも見比べなさる」と思って、「今日決めてしまおう」と、大殿油をお灯し申し上げて、夜が更けるまでお読みになった。しかし、女御はとうとう負け申し上げなさらずに終わってしまった。
「主上がお越しになって、このようなことが」など、人々が左大臣殿に申し上げなさったので、左大臣殿はたいそう心配なさって、御誦経などたくさんさせなさって、そちら〔：内裏〕に向かって一日祈念なさったのは、風流で心打たれることである。
〔解説〕
村上天皇〔：九二六〜九六七〕は、一条天皇〔：九八〇〜一〇一一〕の祖父にあたります。「小一条の左の大臣殿」とは、藤原師尹〔もろまさ：九二〇〜九六九〕です。「宣耀殿の女御」は藤原師尹の娘の藤原芳子〔：？〜九六七〕です〔：略系図〕。師尹の芳子に対する教育は、平安朝貴族の子女教育史料として有名と、注釈があります。
「手」は、今で言うお習字という理解でよいでしょう。「手」は、美しいことはもちろんですが、本人の資質や人柄までも問われる書きぶりも含んで言うことが多いようです。
「琴〔きん〕の琴〔こと〕」は、中国渡来の七弦琴で、聖人の楽器として重んじられたそうですが、奏法が難しく、弾く人が少なかったということです。『源氏物語』では、光源氏が「琴〔きん〕の琴〔こと〕」の名手です。「琴〔こと〕」は弦楽器の総称です。琵琶は「琵琶の琴」、現在の十三絃の琴は「箏〔そう〕の琴」と言いました。
『古今和歌集』は一一〇〇首ほどです。これをすべて暗記せよというのですから、要求のレベルは飛び抜けて高いです。村上天皇は「その月、何の折、その人の詠みたる歌はいかに」と問いかけたということですが、これは詞書を読んでいるのでしょうか。「『古今集』前半十巻の中、時所位を具備して出題に適した歌は訳百五十首、一首二分として五時間に及ぶ。後半十巻では約百二十首を数える」と、注釈があります。和歌の上の句などを言うよりも飛び抜けて難度は高いです。「すべてつゆ違ふことなかりけり」というのですから、これはすごいですね。「ねたきまでに思し召しける」の「ねたし」は、瞬間的な当座の腹立ちを言う言葉で、競技などで負けたのをくやしがる場合と、自分の失敗に腹を立てる場合とがあります。現代語の「ねたむ」の要素はありません。
「御誦経〔みずきょう〕」は、お経をあげてもらうことですが、もちろん、お布施を渡します。夜中に使者があちこちのお寺に派遣されたのでしょう。
この話が『大鏡』にもあります。
〔本文〕
「古今〔こきん〕、浮かべ給〔たま〕へり」と聞かせ給ひて、帝〔みかど〕、試みに本〔ほん〕を隠して女御〔にょうご〕には見せさせ給はで、「やまと歌は」とあるを初めにて、まづの句の言葉を仰せられつつ問はせ給ひけるに、言ひ違〔たが〕へ給ふこと、詞〔ことば〕にても歌にてもなかりけり。「かかることなむ」と、父大臣は聞き給ひて、御装束して、手洗ひなどして、所々に誦経〔ずきゃう〕などし、念じ入りてぞおはしける。
『大鏡』師尹〔訳例〕
「『古今和歌集』を暗記なさっている」とお聞きになって、帝〔：村上天皇〕は、試しに『古今和歌集』の本を隠して女御にはお見せにならずに、「やまと歌は」とある仮名序を最初として、初句の言葉をおっしゃってはお尋ねになったところ、言い間違えなさることは、詞書でも和歌でもなかった。「このようなこと」と、父大臣はお聞きになって、衣冠束帯をお召しになって、手を清めなどして、所々の寺院で誦経などし、熱心に祈念なさっていらっしゃった。
『枕草子』の定子中宮の話に比べて、簡潔になっています。「まづの句の言葉を仰せられつつ問はせ給ひける」とある「まづの句」は、初句なのでしょうか。初句ならば、『枕草子』の質問よりも格段に易しくなっていますが、「やまと歌はとあるを初めにて」とありますから、仮名序も質問したようです。
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亭子の帝から、大江玉淵、伊勢、中務、一条摂政とその子の義孝、村上天皇の周辺と、ずるずると尻取りのように後の時代までやって来てしまいました。この辺りで「延喜天暦のころ」はとりあえず終わりにしましょう。